「共にあること」を理念とし、じっくりと向き合うなかで、それぞれの「よさ」が見えてくる
- 事業所名
- 有限会社山中製作所
- 所在地
- 滋賀県甲賀市
- 事業内容
- ドア用蝶番の製造および粘土の切断機の製造
- 従業員数
- 7名
- うち障害者数
- 3名
障害 人数 従事業務 視覚障害 0 聴覚障害 0 肢体不自由 0 内部障害 0 知的障害 3 組立作業(包装作業含む) 精神障害 0 - 目次

1. 事業所の沿革・概要・理念
(1)信楽という地域のなかで
有限会社山中製作所は信楽焼きでよく知られる甲賀市信楽町にある。また、信楽町は障害者が地域で生活したり、働いたりすることが普通のことであることを目指し先駆的な取り組みを行ってきた地域でもある。地域として障害者の暮らしを支えている。
設立は1972(昭和47)年12月で、創業から1年間は休みを取ることもなく、徹夜をしてでも納期は必ず守った。製造品は当時も現在もドア用蝶番であるが、他の業界・分野に違わず、技術の進歩は格段と進んだ。それ以上に変化が大きかったのは建築業界にとっての好不況の波であり、創業当時は業界が好調であったことも手伝い仕事の受注に困ることはなかった。設立後間もない時期は会社を軌道にのせることが何よりも大切なことであり、幸運にも3か月程で安定した軌道にのせることができた。
設立時は、社長夫妻と専務夫妻、ほかに4名のパートという体制であったが、できることなら内職を引き受けてくれるところがあればありがたいとも感じていた。それは会社の「事情」に過ぎなかったが、それと同じくらいに——あるいは、それ以上だったかもしれない——個人的な「思い」もあり、近くにあるS青年寮(知的障害児(者)の入所施設)に内職をお願いすることにした。その背景としては、専務が以前勤めていた会社で知的障害者の働きぶりについて見たり、聞いたりして、「仕事ができるんだ!」との思い——可能性というよりは確信にちかいもの——をもって事を進めたことが大きい。それが雇用に向けての始まりだった。

(2)理念=求めるかたち=「共にあること」
当時、内職に出す仕事は毎日4tトラックに積み込んで運んでいた。それは量としてはパレット3台分であり、金額としては月15~20万円であった(現在は仕事量の減少にともない1/10程度の金額となっている)。何にしても毎日運ぶ必要があったことから、肉体的な負担が大きくなってきてもいた。そこで内職仕事を外に出すのではなく、会社のなかで仕事をしてもらうことができないか考えるようになった。ちょうどその時期、S青年寮のなかでも寮生を外に出したいとの思いが強まっていたこともあり、結果として会社のなかで仕事をしてもらうようになった(企業内授産施設)。
寮生を外に出したいという思いは、より広く言えば、社会参加への思いということになるだろう。もちろん、その先というか、その奥というか、そこには障害者に対する、そして社会に対する思いがあるのはもちろんのことである。その思いは理念にもつながるものであろうし、もしそうであるならば、二つの理念が共鳴することも不思議なことではないだろう。
「仕事に対する責任」、それが有限会社山中製作所の理念である。引き受けた仕事(取引先からの要求に応じていく行為と言うこともできる)はどのような事があっても(生じても)品質と納期を守る。そのためには常に自己研鑽と社員教育が必要であり、殊に社員教育に関しては、いかにして仕事にやりがいを見つけていくかということが大切になってくる。それは障害があってもなくても変わらないことでもある。ただし、仕事での結果を出していくということになると、障害者(ここでは知的障害者を対象として考えている)にとっては工具の有無、使い勝手の差等の違いが大きなものとなるだろう。必ずしも上手くいくとは限らないが、本人のやる気を起こさせるきっかけづくりのようなものが必要であり、それが本人のための工具の活用といった場合もある。とにもかくにも、仕事ができる喜びと充実で結果を出していく。ここにも仕事に対する責任という理念が一つの形をとって現れている。
専務は言う。「企業に働きたい、……という意志とやる気があればハンディがあっても共存共栄、より広くは共生を目指してという意味で雇用ができ、そして人が育ち、企業も育つ。そんな形が必要なのではないか」、と。
それは、求める形=「共にあること」ということに違いない。
2. 「働く」ということ
(1)それぞれの人について語る
■一つ屋根の下
現在、有限会社山中製作所には3名の知的障害者が働いている。当たり前のことではあるが、皆それぞれに性格も違えば、得意なこと、もちろん苦手なこと、そして事情もさまざまである。だからこそ、暢気に、じっくりと向き合い、そしてコツコツと、ボチボチと仕事をしていくなかで「よさ」も「よくないこと」も見極めていかなくてはならない。一つ屋根の下で「働く」ことになったのだから。

■雇用へのプロローグ
会社設立当初から内職を通じて近隣の施設との関係がいっそう深まることとなった。初めはS学園(知的障害児施設) に内職をお願いすることを考えていたが、常に納期厳守であり、学園としては常に納期に応じることが難しいかもしれないという事情から、S青年寮を紹介され、最終的にはS青年寮に内職をお願いすることとした(「1.事業所の沿革・概要・理念」を参照)。当時は設立間もない時期であり、土曜日・日曜日も関係なく仕事をしていた。一方、学園では土曜日・日曜日は生徒が実家に帰る日に当たっていた(実家に帰るという行為は訓練の一環でもあるということでもあった)。そうしたことから難しいと判断することになったわけだが、ここでの関係は後々に雇用へと至るきっかけとなる。
■Aさんのこと
Aさんがここで働くようになったきっかけは多くのことがそうであるように、偶然の出会いが始まりだった。当時、専務夫妻が住んでいた家の隣に教員住宅があった。たまたまそこにS学園の職員の方が住んでいたことから、よく話をしたり聞いたりしていた。もちろん共通の話題のようなものもあったのだろう。気が置ける「お隣同士のような」関係のなかで、S通勤寮(就労している知的障害者に対し、独立および自活に必要な助言ならびに指導を行う知的障害者福祉施設。現在は廃園)の話も聞いていた。その時点ではすでに信楽町職親会(「3.これまでのこと、つくりあげてきたもの」で詳述)の活動を通じてS通勤寮とも関係があったことから、S通勤寮を通じてAさんの採用についてお願いできないかとの話があり、過剰な意識を持つこともなく採用することとした。それは1993(平成5)年のことであり、気がつけばすでに勤続は14年を超える。
Aさんはここに来る前、大阪で会社を転々としていた(会社は7社、1社あたり平均3か月程)。そこにはいくつかの理由があったとは思うが、やはり大きなものは人間関係ということだったのではないかと思う。仕事を覚えていく過程には実にいろいろなことがあるし、また人によっては言葉が過ぎてしまったり、特に余裕がない時ほど、必要以上にその場での感情に流されてしまい誤解を与えてしまうような言い方をしてしまったりする。そうした事が度重なるなかで、本人が会社に行くことができなくなってしまう。そして困ったことに退職へと至ってしまうケースもある。Aさんにも、それと近いようなことがあったと聞く。結果、福祉事務所から話があり、AさんはS通勤寮に行くことになる。
当初、Aさんは集中できないところが目立ち、仕事中でもキョロキョロしがちであり、同じところを怪我することが多かった。仕事は当時も現在も蝶番の組立であり、変わりはないが、確実に成長の姿は見られる。現在は、自分だけのことではなく、誰かの代わりになれる存在である。
現在のAさんは持続力が有り、正確さも有るが、作業のスピードは決して速いとは言えない。でも、作業スピードについて別の観点から見れば、それは適当に処理しないということでもあり、長所でもある。たとえば「少しのキズでもあかん!」と部品をくいいるように見つめ確認することは、結果として安心できる姿でもある。
現在Aさんは電車に15~20分乗り、最寄り駅からも15~20分自転車に乗って会社まで通勤してくる。当初Aさんも会社のすぐ隣にあるアパートで生活していたが、あまりに会社との距離が近すぎたのか——目と鼻の先といった距離——、むしろ意欲の低下というか怠け癖というか、世間で言うところの5月病のような状態の時期がしばらく続いた。そこで思い切って遠方からの通勤に変えてみたところ、意欲は充実し、結果として難しい時期を乗り越えることができた。
■Bさんのこと
Bさんにとってはあるきっかけが大きな効用を生んだ。1999(平成11)年に採用してから1年。しかし、困ったことにBさんは部品にキズをつけてしまいがちであった。というのもBさんが担当する仕事は組立作業であり、ネジ打ちにはハンマーを使用していたからである。実際、ハンマーは加減が難しいところがあって、どこまで打ち込めばいいのかといった目安は感覚に頼らざるを得ないというのが実情であった。だから、念には念を入れるというのか、きちんと打ち込もうとすればどうしても打ち込み過ぎてしまうということにもなってしまう。それは本人の性格にもよるだろうし、感覚によっても差はあるだろう。繰り返しての指導、あるいは訓練によって改善されるケースもあるだろうが、Bさんには合わなかったようだ。そこでいろいろな角度から検討した結果、ハンマーを使わずに済むように、本人のために自前で機械を造ることとした。それはエア・シリンダー圧を利用した軸を用いてネジを差し込む機械で、どんなに強く差し込んでも一定以上は差し込めないようにしたものであり、その機械を使用するようになってからは部品にキズをつけてしまうこともなくなった。つまりは会社としての観点から見れば、不良品が出ないということになり、生産の質も量も改善された。
もちろん当初から、ここまでの効果を期待していたわけではなかった。ただ、Bさんにこれからも仕事をしてもらうとすれば、何とかしなければいけないことではあった。それというのも、Bさんが間違ったことをしているわけでは決してなかったが、結果として不良品となってしまっては仕事をしている意味がなくなってしまうからである。
好きなことは好き、嫌いなことは嫌い。だから興味の有るなしによっての差が大きくなる。それはBさんの性格と言っていいかもしれないが、自前で用意した機械はBさんの興味を喚起し、ピタリと合ったものとなった。後になって知ったことだが、Bさんの家は電気店を営んでおり、そうした環境で育ったBさんは機械ものに興味があったのである。事実は偶然が重なっただけだが、その偶然は本人にとっても会社にとっても大きな助けとなった。
また、Bさんは障害者スポーツの卓球競技の県代表で、過去にはスウェーデンに遠征に出かけたこともある。今でも精力的に練習を積んでいて、平日週1回は自宅の近くで練習をし、休日は遠い場所にある体育館に通って練習をしている。
好きなことがあって、そのことをがんばれる、努力ができるということ、それは一つの才能かもしれない。

■Cさんのこと
Cさんは2001(平成13)年からここで働いている。それ以前は別の会社で6年ほど働いていたが、事情があって退社することとなった。Cさんは作業のスピード面だけをみれば他の人と遜色はない。けれど困ったことにミスが多い。そのため作業の進捗具合や出来具合を確認する意味もあり、丁寧な指導が欠かせない。それは会話でのやりとりに少なからず難しいこともあることから、「見て、触れて、実際にやってみせて、実際にやらせてみる」といった取り組みになる。そうした取り組みの甲斐もあってか、最近では一つの作業が終わったら次の作業のことを考えるようにもなった。たとえば箱の中の部品がなくなれば、何を言わなくても自分から次の部品を持ってきてくれる。また、興味のあることに限定されはするが、積極的に自分から仕事を見に来るようにもなった。仕事における成長のペースは人それぞれだが、成長は周囲の根気強さ、待つ態度によってしか叶えられないこともあるのではないだろうか。
Cさんはこれまでに何回か県内の知的障害者作業競技大会(平成19年はアビリンピック滋賀大会の各種組立等競技)に参加している。先にも述べたように、Cさんは仕事の手が早いことは早いが、競技大会に参加してみると、もっと作業が早い人はたくさんいる。誰かと比較して評価をすることには良い点も悪い点もあると思うが、距離をもってみることは偏見や一方的な思い込みのフィルターを除くことにもつながり、より実際の姿を感じることができると思う。それは家族であれば、なお一層のことだろう。
(2)「働く力」を育てる、支える
■適性は人それぞれ
Aさん、Bさん、Cさんそれぞれについて述べたところなので、やや繰り返しになるかもしれないが、それぞれに適性はある。適性は時間をかけてゆっくりと付き合うことを通じてこそ、理解することができる。そこには「見(看)てやろう」という思いがある。それは「してあげる」という意味においてではなく、専務の言葉を借りれば、「今日があるのも彼らのおかげ」という素直な感謝の気持ちがあるからである。
■「雇用する以上はきちんとしたい」
「雇用をする上で、本人たちの雇用条件をどうするのか?といったことはとても大切なことだと考えている」と専務は言う。雇用保険をはじめ、その他の社会保険の加入は当然のことであり、また、勤務時間等は必要があれば見直しもする。もし、何らかの理由や事情があって、これまで通りではうまく行かないことがあるとしたら、できる範囲のなかで工夫をし、もう一度、うまくいくようにする。ここでも、あせりは禁物。周囲にいる人が「待つ」ことができるのか、それともできないのか。結果は自ずから変わってくるだろう。
何にしても、できるだけ本人にそったものであることが肝要で、それは業務遂行援助者(助成金の活用有り。詳しくは独立行政法人高齢・障害者雇用支援機構(当時)のホームページ参照)の役割でもあり、難しいところでもある。
■家族との対話
一部の企業を除くと、本人たちの仕事ぶりを家族の人たちが直に見ることは稀ではないだろうか?実際、働き始めてしばらくの間は、様子見と言うのだろうか、「よろしくお願いします」といった感じで職場を訪れることはあっても、その後も変わらずに訪れるということは少ない。
その代わりというわけではないが、本人たちの様子を互いに伝え、より分かり合うために連絡ノートをずっと続けてきている。書き方は自由だが、ただし、書くことが煩わしくなってしまっては始めた意味がないということで、○×△の記号を用いてその日の評価が分かるようにしている。また、よりいい時は◎、それ以上の時は❀(はなまる)を付ける。やっぱり、◎の時は家族の人も安心なのだろう。返ってきたノートを開くとコメントが書かれていることがほんとうに多い。ノートを介した対話と言えるかもしれない。
3. これまでのこと、つくりあげてきたもの
(1)雇用以外での取り組み1:信楽町職親会
有限会社山中製作所は信楽町職親会の会員事業所である。そもそも信楽町職親会は1965(昭和40)年6月に設立された団体であり、会員は知的ハンディキャップのある労働者を雇用する事業主である。設立から40年以上が経過し、社会環境や経済事情、地域情勢などが変化するなかで、それでも変わらずに残って(残して)きたものが何なのか?それは一言で言えばこうなるだろう。
『知的ハンディキャップをもつ人たちが普通の労働者として生きることの喜びと共にあること。』
それは有限会社山中製作所の理念とも合致する。そこで、信楽町職親会30周年記念として編集された「共生の里」(1997年発行)に掲載された有限会社山中製作所についての文章(執筆者:専務)を断片的に抜粋しながら、これまでの取り組みを支えてきた思いを振り返りつつ見てみたい。
『知的障害者は閉ざされたものではなく、周りの助言しだいで、本人のやる気と持っている潜在能力が発揮され成長して行く事……(後略)』
『たとえ小さな、少しの仕事でも出来る喜びはその子にとって、自信であり、認められる事で生きがいを見つける、豊かな暮らしに連なって行くと思う。』
『或る時には打算のない彼らの行動によって援助されているという事も理解しなければならない。共存共栄、共生の原点ではなかろうか……(後略)』
また、今後のことについて触れている箇所もある。
『(前略)加齢化と共に定年を間近に控えて、そんな時彼らは今後どのように援助されていくのだろうか。チョット“おせっかい”になるけど、気になってしょうがない。』
形あるもの、そして形ないもの、有限会社山中製作所がつくりあげてきたものは現在でも「共にあり」続けている。
(2)雇用以外での取り組み2:企業内授産施設
会社設立間もない頃——それは1973(昭和48)年当時のことであるが——から工場の一部に企業内授産施設として、近隣の入所施設で暮らす知的障害者のために仕事の場を提供してきている(「1.事業所の沿革・概要・理念」を参照)。仕事にやって来るメンバー(現在8~9名)は当初からほとんど変わらず、現在では最高齢60歳以上の人もいる。社会の多くの場で問題になっているように、ここでも高齢化という課題が顔を出しているが、現実は親が不在であったり、兄弟・親戚との関係がきわめて希薄だったりと、生きていくうえでの難しさは言うを待たないだろう。
また、S青年寮との関係はこうした取り組み以外にもさまざまなものがあるが、トピック的な一例を挙げてみよう。青年寮にはワークセンターがあり、そこでは紙漉きを行っているが、手漉きでの作業故に凸凹ができてしまう。そこで改善のために自前の機械を設置することにした。機械の製造は専務が得意とすることでもある。結果、ロールを通し均等の圧力をかけることで表面を平面に、そして滑らかに仕上げることができるようになった。それは4年程前のことだが、今でも機械は大活躍をしているとの事である。もちろん機械の製造は専務のボランティアである。
再び、企業内授産施設の話に戻ろう。ずっと長い間、一緒の時間を過ごしてくると、仕事に関してはすでによく分かってくれているし、施設の指導員もベテランになり何をどうしたらいいかを十分に把握している。雇用の現場でも同じことが言えると思うが指導者への指導が大切であり、その対応によって結果の現われ方も変わってくる。また、過ごした時間の長さと深さからメンバーに対して愛着を抱くのは自然なことでもある。
専務は言う。「いつも来ている人が来ていないと心配というか、気になるものですよ。ずっと話をしてきたのだからね」と。

メンバー

4. これからのこと、つくりあげていきたいもの
(1)課題
常に新たな難しいことが起こってくる。そのことを専務に訊ねた。箇条書きでまとめてみる。
◆近年、発達障害という言葉が頻繁に聞かれるようになってきたが、知的障害といっても精神的に不安定な面が強かったり、自閉症的な傾向が見られたりと人それぞれである。一つの固定した枠組みで考えていては難しいことも多くなってきている。
◆景気動向により地域での活動も財政的に苦しくなってきている。地域活動に対する支援の手立てを何か考えていかなければいけない(信楽町職親会の運営、企業内授産施設の賃金など)。
◆障害者同士の人間関係。人によってはライバル意識が強すぎてトラブルになってしまうことがある。どちらの肩ももつことができず、喧嘩両成敗的な対応に終わってしまう。まして、保護者が関わり出すといっそう難しくなるケースもある。地域の支援センターに入ってもらって一応の対応(暫定的な解決)は出来ているが……。
(2)模索しながらの方向性
唐突だが、鶏が先か?卵が先か?という問いがある。障害者の雇用ということで敷衍してみると以下のような問いになるだろう。雇用の取り組みが理解を生むのか?それとも、理解が取り組みを起こさせるのか?と。
これまで述べてきたように有限会社山中製作所にはつくりあげてきたもの(「共にあること」という理念に象徴されること)がある。これは目に見えるものばかりではないが、しっかりとした根をはっている。これからも、これまでの取り組みを消化(昇華)しながら、その根を守っていくのだろうと思う。あせらず、ゆっくりと、何よりも思いを失うことなく、より「共にあること」を目指して。
執筆者 : 社団法人滋賀県雇用開発協会 障害者雇用アドバイザー 緑川 徹
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