絆で結びつく障害者の職場
![]() 事業所外観 |
1. 事業所の概要
(1)設立の経緯
「ハローワークに勤務していた父が転勤を嫌って設立した会社なんです」現社長の村田陽一氏は懐かしげに当時を振り返った。現社長の父が生まれ育ったいわきから会津若松に転勤を命じられたのは昭和37(1962)年のことであった。当時は東京オリンピックの開催や東海道新幹線の開業を控え、日本がまさに先進国へ踏み出す高度成長の真っ只中であった。リネンサプライ業も時代の変化とニーズとともにこの時期に誕生した。
先見の明があった現社長の父は昭和38(1963)年、ハローワークの退職を機に福島県いわき市内郷にて村田基準寝具株式会社を設立し、リネンサプライ業を創業した。平成4(1992)年、父である前社長の意思を引き継ぎ、村田陽一氏が代表取締役に就任した。
(2)事業の現状
会社設立以降、誠実な業務運営と堅実な経営、さらには病院や大型ホテルの開業など時代の流れにも背中を押され、会社は順調に業績を伸ばした。平成9(1997)年には、手狭になった内郷の事業所からいわき市最大の工業団地である「いわき好間中核工業団地」の一角に4億8千万円の設備投資により建設した新たな工場に移転した。
事業内容は病院・ホテル関係の洗濯受託業務がメインである。現在の総従業員数は36名で、うち障害者は21名と障害者雇用率は50%を大きく超えている。
作業の流れは次のようになる。(ア)汚れ物の回収 (イ)種類別に選別 (ウ)洗濯 (エ)仕上げ (オ)検品・確認 (カ)出荷 これらの工程の中で各人に適した工程に21名の障害者が従事している。
2. 障害者雇用の経緯
(1)障害者雇用の経緯
昭和56(1981)年は国際連合が指定した国際障害者年である。「(障害者は)その社会の生活と発展に全面的に参加し、他の市民と同様の生活条件を享受し、生活条件向上の成果を等しく受ける権利を持つ」とテーマが定められた。そして、社会への身体的・心理的適応が可能なよう障害者に助力をし、障害者に妥当な援助、訓練、ケアおよびガイダンスを提供し、適切な労働をおこなう利用可能な機会をつくることなどが国連で決定した。
この年、前社長がハローワーク(公共職業安定所)出身であったことをきっかけに、ハローワークの担当者から障害者雇用の働きかけがあった。障害者の雇用について関心はあったものの一抹の不安があったのだが、これをきっかけに昭和56(1981)年に6名、翌昭和57(1982)年にも6名、「社会福祉法人いわき福音協会」を利用している障害者を雇用した。いわき福音協会は障害児者への総合的な就業・生活支援事業等々、多様な障害福祉サービス事業を進めており、障害者本人の有する能力に応じた日常生活を地域社会において営むことができることを目指し、一人ひとりの意向を汲み自己実現ができるように支え、就業支援についても積極的であった。
この12名の雇用が会社にとって大変良い経験になり、その後も毎年のように障害者を養護学校などから採用している。
(2)障害者雇用の現状
広々とした工場の中には、大型の機械が唸り声をあげて動いている。その機械の前で、現在21名の障害者が働いている。企業全体の労働者が36名であり、障害者雇用率は約60%という驚異の数字である。また、定着率が良いこともこの会社の特徴である。障害のない者は主婦層のパート従業員が多く、障害者に対し母のような温かさを持って接する機会が多く見られる。
障害者の賃金は福島県の最低賃金からスタートする。最低賃金の減額の特例許可を受けてはいない。もちろん、経験や能力により昇給し、賞与の支給もあるため、障害者のモチベーションの向上につながっている。
当社が求める人材は明確に次のように決まっている。これらのことは障害者の雇用についてもひとつの基準になっており、一人ひとりの目標になっている。
(ア)IQにはこだわらない
(イ)挨拶ができるか
(ウ)返事がきちんとできるか
(エ)間違った時にきちんと謝ることができるか
(オ)一日の作業をするのに体力があるか
(カ)素直な気持ちがあるか
(キ)思いやりがあるか
(ク)身の回りの整理整頓ができるか
3. 取組の内容
(1)雇用管理
リネンサプライ業はどちらかと言えば、繰り返しの単純作業が多い。作業の流れと工程は次のとおりである。
(ア)配送担当者による汚れ物の回収→(イ)種類別に選別→(ウ)洗濯工程→(エ)仕上げ工程(シーツ・カバー類、ピロケース類、浴衣類、ガウン類、タオル類、白衣類、手術衣類、個人の私物関係)→(オ)検品・確認は検品担当者→(カ)出荷は配送者が最終チェックして積込。
このように業務を細分化し、単純作業の集積にすることにより、障害があっても完璧な業務が行えるよう配慮している。
![]() ![]() 障害者の作業風景 |
当社があるいわき市は全国の地方都市同様、車社会であり一人一台の自家用車があたり前のようになっている。工場の立地するいわき好間中核工業団地への通勤も95%以上がマイカー通勤となっている。毎日、家族の送り迎えでは、家族の負担があまりにも重すぎる。そのため、当社では通勤のための送迎バスを運行し、家族の負担の軽減をはかっている。このような取組が、障害者を持つ家族との信頼関係を築き、良好な雇用管理に繋がっているものと考えられる。
(2)東日本大震災後の対応
平成23(2011)年3月11日、東日本大震災が福島県いわき市にも震度6強の揺れが襲った。幸いにも、地震による人的被害は無く、設備の被害も最小限で収まった。しかし、その後発生した福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染で多くの従業員が避難をせざるを得ない状況に陥った。障害者の多くが横浜市の施設に避難した。数週間で、放射能汚染は落ち着きをみせ、震災後はまったく仕事がなかった工場にも、徐々に仕事の依頼が入り始めたものの、避難した障害者がいわき市に戻ってくる気配は全くなく、避難先から自宅に戻り、仕事に従事し始めたのは震災から3ヶ月が経過していた。「障害者の労働力なくして、この工場は満足に稼働しません」震災を機に、村田社長は改めて障害者雇用の重要性を感じるとともに、障害者の雇用改善に意欲を燃やしたのだった。
4. 取組の効果
(1)効果
「毎年実施している社員旅行を、みんな大変楽しみにしているんですよ」社長の奥さまは目を細めて語る。毎年、9月に1泊2日でバスをチャーターし全国の観光地を巡ることが、会社の恒例行事になっている。今年は富山湾を望む石川県の和倉温泉へのツアーだった。障害を持つ従業員にとって、このイベントこそ1年の最大のイベントであり、社員旅行そのものが働くモチベーションになっているのだ。社長は笑って次のように、社員旅行を始めた当初の苦労を話した。
「20名もの障害者を連れてのバスツアーは会社にとっては大変大きな苦労の連続と言わざるを得ません。当初は、受け入れてくれるバス会社や宿泊先を探すことから大変骨が折れました。一部の偏見やほかのお客様に迷惑がかかるかも知れないなどを理由に障害者の宿泊を拒むホテルや旅館があったのも事実です。」
宿泊先では、全従業員が宴会でカラオケなどで盛り上がるが、中心となって宴会部長を務めるのはいつも障害のある従業員だ。カラオケのマイクは途切れることがなく宴会は続いていく。今では、一般の社員旅行よりもマナーが良いと、旅行会社から極めて高評価を得ている。
「社長、今晩もみんなで社長の部屋に行ってもいいですか」社員旅行での宴会が終了する頃、障害者の誰ともなく社長に声をかけていく。社長はいつも笑顔でうなずく。実は、社員旅行の障害者にとっての最大の楽しみは、夜通し社長と語り明かすことなのだ。自宅以外での宿泊がなかなか困難な障害者にとって、お酒を飲みながら一晩中、尊敬する社長と同じ時間を共有できることは最も幸せな時なのである。
「会社にとっては、社員旅行はかなりの負担になります。しかし、この旅行で経営者、障害のない者そして障害者との絆ができるんです。これからも毎年続けていきますよ。」
これだけ高い障害者雇用率と高い定着率はこの絆から生まれてきているのだろう。
(2)今後の展望
「障害者でも指導しだいでは、より高度な業務が可能になると思います」村田社長の脳裏には、工場の中でさらに多くの障害者が働く光景が見えているに違いない。これを実現するためには、更なる業務の細分化や一人ひとりの障害者がスキルをアップするための、指導システムなどを確立していかなければならないであろう。障害者が障害者を指導する理想の職場の実現も遠い先の話ではないかもしれない。
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